生田神社
生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は官幣中社。
かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えない。
祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも言われる。
生田神社(いくたじんじゃ)
所在地 兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1
主祭神 稚日女尊
社格等 式内社(名神大)・官幣中社・別表神社
創建 神功皇后元年(201年)
本殿の様式 春日造
例祭 4月15日
生田神社(いくたじんじゃ)
歴史
201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。
“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。
当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。
平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。
神階は859年(貞観)元年に従一位まで昇った。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。
近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。
社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害、1945年(昭和20年)の神戸大空襲、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害等の被害に遭い、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。
伝説・伝承
延暦18年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、全く洪水を防ぐ役割を果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。
元あった布引丸山(または砂山とも呼ばれる)場所には旭の鳥居という一の鳥居があり初日の出の日であっても影が出来ない鳥居があるとされる。
境内
鳥居の向こうに楼閣、本殿があるが、他にも脇社として蛭子神社および稲荷社、弁天池などがある。また、「謡曲生田敦盛」の碑や、地元飲食店や食品間連企業などの寄付で作られた包丁塚、震災復興祈念碑、楠の神木がある。柱に書かれた寄進者名には、ホテルあるいは海洋関係の企業も多い。
包丁塚は、1993年(平成5年)10月25日に建立された。
境内北側に鎮守の森が広がっており「生田の森」と呼ばれている。
生田神社界隈
三宮駅の北西、繁華街にある東急ハンズに沿うように、
一の鳥居がある。
飲食店などの立ち並ぶ坂を山手に行くとすぐ次の鳥居があり、境内は周辺のにぎやかな街とは別世界の風がある。
境内には幾多の歌にも詠まれた「生田森」が残っており、かつては源平の戦場にもなった森が今では市民の憩いの場になっている。
* 秋とだに吹きあへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草
(藤原定家 続後撰和歌集)
* 津の國の生田の杜に人はこで月に言とふ夜はのあきかぜ
(中務卿宗尊親王 新後撰和歌集卷第五秋歌下)
生田神社(いくたじんじゃ)
交通
* 三宮駅
o 阪急神戸線・神戸高速鉄道東西線
o 阪神本線
o 神戸市営地下鉄神戸市営地下鉄西神・山手線
o 神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)
* 三ノ宮駅 - JR西日本神戸線
* 三宮・花時計前駅 - 神戸市営地下鉄海岸線
それぞれ北西方面へ徒歩数分。
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posted by 東京喜多見より at 07:22
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